大判例

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最高裁判所第一小法廷 昭和42年(オ)64号 判決

上告人

藤林清司

代理人

田辺照雄

被上告人

株式会社富士銀行

代理人

吉川幸三郎

前田進

高橋進

主文

原判決を破棄する。

本件を大阪高等裁判所に差し戻す。

理由

上告代理人田辺照雄の上告理由について

原審の確定するところによれば、上告人は被上告銀行との間で当座勘定取引契約を締結して、上告人振出の手形を上告人の被上告銀行東九条支店に対する当座預金から支払うことを委託し、被上告銀行は、上告人があらかじめ提出した印影と手形上の印影とを照合し、両者が符合する場合に上告人のためその手形の支払をなすべきこととなつていたところ、同支店では、上告人の義母が上告人名の印章を偽造しこれを押捺して作成した上告人振出名義の偽造手形五通(以下、本件手形という。)上の印影が上告人から同支店に届け出ていた印鑑票上の印影と似ていて、印鑑票と手形とを平面に並べて肉眼で両印影を比較照合するいわゆる平面照合の方法によつて照合した担当係員においてその相違を発見しえなかつたため、右手形が真正に振り出されたものとして、上告人の当座預金からその支払をしたというのである。

おもうに、銀行が当座勘定取引契約によつて委託されたところに従い、取引先の振り出した手形の支払事務を行なうにあたつては、委任の本旨に従い善良な管理者の注意をもつてこれを処理する義務を負うことは明らかである。したがつて、銀行が自店を支払場所とする手形について、真実取引先の振り出した手形であるかどうかを確認するため、届出印鑑の印影と当該手形上の印影とを照合するにあたつては、特段の事情のないかぎり、折り重ねによる照合や拡大鏡等による照合をするまでの必要はなく、前記のような肉眼によるいわゆる平面照合の方法をもつてすれば足りるにしても、金融機関としての銀行の照合事務担当者に対して社会通念上一般に期待されている業務上相当の注意をもつて慎重に事を行なうことを要し、かかる事務に習熟している銀行員が右のごとき相当の注意を払つて熟視するならば肉眼をもつても発見しうるような印影の相違が看過されたときは、銀行側に過失の責任があるものというべく、偽造手形の支払による不利益を取引先に帰せしめることは許されないものといわなければならない。このことは、原審が認定しているように、当座勘定取引契約に、「手形小切手の印影が、届出の印鑑と符合すると認めて支払をなした上は、これによつて生ずる損害につき銀行は一切その責に任じない」旨のいわゆる免責約款が存する場合においても異なるところはなく、かかる免責約款は、銀行において必要な注意義務を尽くして照合にあたるべきことを前提とするものであつて、右の注意義務を尽くさなかつたため銀行側に過失があるとされるときは、当該約款を援用することは許されない趣旨と解すべきである。

しかるに、原審は、右免責約款により、印鑑の照合についても本来の厳格な注意義務が軽減緩和され、銀行は、短時間内に多数の手形小切手の決済事務を処理する必要上、実際に行なつている程度の注意をもつて照合すれば足りるものとされるとの前提に立ち、本件手形上の印影と届出印鑑の印影との相違は、仔細に点検すれば肉眼によつて必ずしも発見しえなくはないものであることを認めながら、本件手形についての印影の照合が通常の場合に比してとくに粗雑に扱われたものでなかつたと認められる以上、一字一字の字画につき入念に点検しなかつたとしても、尽くすべき注意義務に欠けるところはなかつたものとしている。しかし、右免責約款は、印影の照合にあたり必要な注意義務が尽くされるべきことを前提としているもので、右の義務を軽減緩和する趣旨と解すべきでないことは前叙のとおりであり、そして、ここにいわゆる必要な注意義務は、自己の財産の管理を銀行に委ねている取引先の信頼にそうものとして、前示のごとく、銀行に対し社会通念上一般に期待されるところに相応するものでなければならない。したがつて、現に行なわれている銀行業務の実情が必ずしもそのまま是認されるものでないことは、原審もいわゆる記憶照合について正当に判示しているとおりであつて、実際に平面照合が行なわれた場合においても、同じく叙上の観点から、尽くすべき注意義務が遵守されたかどうかが判断されなければならないのである。

それゆえ、右と異なる見解に立つて被上告銀行の免責を認めた原判決には、注意義務に関する法令の解釈適用を誤り、ひいて審理不尽の違法をおかした瑕疵があるものといわざるをえず、論旨において理由があり、原判決は破棄を免れない。

なお、本件手形中の三通(第一審判決添付手形目録の(一)・(四)・(五))については、振出日の記載がなく、同欄白地のまま上告人の当座預金から支払がなされたことも、原審の確定するところであるが、確定日払の約束手形にあつても、振出日の記載は欠くことの許されない手形要件の一つであるから、右三通については未完成な手形のままで支払がなされたものといわなければならない。

しかし、当座勘定取引契約によつて銀行が支払を委託されているのは、本来、完成した手形ないし小切手についてであつて、それ自体未完成な手形であり、その支払をもつては有効な手形の支払となすことをえない白地手形についてまでも、当然に支払委託があるものと解することはできない。原審は、本件当座勘定取引契約の締結にあたり、上告人が振出日の記載のない手形の支払を拒絶するようとくに申し出た事実がないことをもつて、かかる手形の支払をなすことについて上告人に異存がなかつたものと認める一根拠としているが、当座勘定取引契約における上告人振出の手形(および小切手)に対する支払の委託は、事の性質上、有効な手形(および小切手)についてなされた趣旨と解すべきであるから、原審の前記判断はにわかに首肯することができない。もつとも、本件当座勘定取引の開始後、本件のような白地手形が上告人の当座預金から支払われ、これに対して上告人からも格別異議がなかつたというような特段の事情があれば、かかる白地手形についても支払を委託する趣旨の合意が成立したものと見ることができないわけではないが、原判示のように、一般に、振出日白地の手形が相当多数流通し、それが白地を補充せしめないままで支払われてもこれに対して支払委託者から異議の出た事例がほとんどないからといつて、直ちに本件当座勘定取引契約における支払委託が、その契約文言の如何にかかわらず、手形法上有効な支払と認められないような未完成の白地手形の支払までをも含む趣旨と解することは、相当とはいいがたい。その他、原審の判示するところによつては、上告人の意思が、振出日白地の支払をも委託する趣旨であつたものと解すべき理由は、これを見出すことはできない。

してみれば、被上告銀行としては、本件白地手形を支払うにあたつては、振出名義人たる上告人に対し、電話その他の相当な方法により、右手形についての支払委託の有無を確認すべき義務があつたものというべきであり、かかる確認手段を講ずることなく振出日白地のままの前記手形の支払をしたことは、委託の趣旨に反して支払事務を処理したこととなるのであつて、その結果を上告人に帰属せしめることは許されないところと解しなければならない。それゆえ、原判決中、右白地手形三通に関する部分については、この点において審理不尽、理由不備の違法があり、破棄を免れないものといわざるをえない。

よつて、原判決を破棄し、叙上の諸点につき原審において審理を尽くさせる必要があるものと認められるから、本件を原審に差し戻すこととし、民訴法四〇七条一項に則り、裁判官全員の一致で、主文のとおり判決する。(大隅健一郎 岩田誠 藤林益三 下田武三 岸盛一)

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